中期中絶を選択すること①
※今回は、中期中絶を選択した心情というか、私の個人的な意見をまとめています。
不快な思いをされる方もいるかもしれません。ご了承ください。
中絶という単語は、正直使いたくありません。
しかし、死産という形で終わらせたくもない。
私が確実に息子の「命を諦める」という選択をしたことは、事実です。
それを隠して、綺麗事で生きていくことはしたくありません。
なので、私は中絶という言葉を使います。
以前私がTwitterで呟いたツイートです↓
まさか自分が中絶を選択する立場になるなんて・・・
「NT肥厚、脊椎異常」この二つを指摘され、トリソミーの可能性を疑われました。
私は「産む」「産まない」の選択肢を迫られ、夫と話し合い、かなり悩んだ日々を送りました。
中期中絶は最終的に人工の「死産」という名前に変わります。
我が子の命の選別をしたお産であり、「自然死産」とはまた違う意味で、自分のことを追い詰め、罪悪感に襲われてしまう、とても悲しいお産です。
そんなショックと、苦痛が誰にだってあることを多くの人達に知って欲しいと思い、呟いたツイートです。
しかし、とある人からこんなコメントを貰いました。
「中絶を選択したのだから、周りから批判される覚悟ぐらい持て」的な感じのものでした。
(その方はすでにコメントを削除しているので、詳細がわからず確定したコメントは不明です)
なので、私のツイートで意見した人に対して最初はショックを受けました。
「なんで、何も知らないのに、反論できるのか?」と。
その方のツイートを何となく見させてもらったのですが、逆に冷静になりました。
赤ちゃんや家族の写真を沢山載せて、夫や義実家の愚痴や育児にいっぱいいっぱいになっているツイートばかり。
「ああ、何も知らないから、反論できるんだ」
と逆に納得できたのです。
この人は、何も問題なく妊娠して、出産して、我が子を愛している。だから、簡単に中絶に反論できる。
そしてよく考えると、反論や批判でもなんでもない。
ただの「その人の考え」なのだと感じました。
中絶するなんて、どうかしていると。自分の子ならどんな子だって愛するべきだと。責任を持って育てるのが当然だと。
その感情は、妊娠も知らない、病気も知らない、誕生死も知らない「何も知らない昔の私」と同じだと思いました。
Twitterの意見を受け、「出生前診断」「中絶」と言うワードを検索すると、めちゃくちゃ批判されるコメントが多いことに改めて気づきました。
「殺人」「罪人」「親失格」「無責任」なんて単語が飛び交い、完全に中絶を選択した人達を攻め立て、悪者扱いするようなものばかり。もちろん、一つの選択として肯定する人もいますが、死産後だったこともあり、やけに悪いコメントに目がついたんです。
私は最終的に自然死産となった結果でしたが、「息子の心臓が動いた状態で、中絶を選択しようとした人間」です。トリソミーの可能性があると医師から言われた時も、合併症によっては中絶を視野に入れました。
重度の13・18・21トリソミーだったら、中絶は確実に実行していたと思います。(理由は後で述べます)
こんな批判や罵倒ばかりのコメントを見て、一気に私も追い込まれるかな・・・と思いましたが、自分でも驚くほど冷静でした。
「ああ。中絶した人を批判する人って、個人のことを何も知らないし、知ろうともしないんだ」と。
夫のDVやレイプ、または未成年の妊娠。これらの望んでいない妊娠に対しての中絶には、強く批判する人は少ない。しかし、望んだ妊娠で、病気により障害児だとわかった瞬間に中絶を選択した人達は、叩かれる対象になる。
なんて言うんでしょう。
中絶に至った経緯を「健常児じゃなきゃ嫌というワガママだけで、育てられないから赤ちゃんを殺す」というマイナス面の意味付けをつけて解釈している人が多いのでは…と感じました。
まあ、その捉え方をされても仕方ないと思いますし、事実、殺人であることに変わりはありません。赤ちゃんの人権問題はどうなるのか…と。
でも、私は今でも思います。
子供に病気が見つかり、障害があるとわかった瞬間。
すぐに受け入れられる覚悟を持つ人は、いないと思います。誰だってショックや悲しみの渦にのまれ、不安になる。受け入れられない人の方が、多いと思います。
それは私達の住む世界が、「健常者の思考」を優先した世界だからではないでしょうか?
健常者が圧倒的に多くて、障害者と健常者が区別された世界だから、だから障害児だとわかった瞬間、不安が込み上げてくるし、自分の子だってすぐには、受け入れられないんじゃないかと思いました。
比較される対象、「普通と違う」という価値観が根付いているから、心理的なショックを受けるんじゃないかと思います。
私は死産を経験した後、ダウン症の子を対象とした養子縁施設の動画を見ました。
その中で施設長さんの話で衝撃を受けたものがあります。
とある夫婦は、ダウン症の子を育てられないと言って施設へ預け、次に産んだ健常児の子供は育てている、とのことです。そして、また違うとある夫婦は、母親がダウン症と知って鬱になってしまい、身体的にも、育てられない状況になってしまったと。
施設長さんは子供ができず養子縁に登録した夫婦に「障害を持った子でも、養子が欲しいか」と質問するらしいのですが、残念ながら、断る夫婦もいると答えていました。
ダウン症だけではありません。
私が看護学生の時、小児科の実習の中で、忘れられない子供がいます。
難病を持って産まれてきた子で、心疾患と呼吸不全が合併し、人工呼吸器をつけた5歳の女の子。口から食事も取れず胃ろうから食事を取っていました。体動はできず、意思疎通は少しだけできました(頷くように見えるだけ)。
担当では無かったのですが、痰吸引の手技を観察する機会があり、関わらせてもらったんです。
その子の親は、産まれてから5回しか面会にきていないと、看護師から聞きました。
親が我が子を受け入れられず、産まれてからずっと入院をしている子供。この子は退院できるんですか?と質問した時、「わからない。退院できたとしても、家には帰せないかもね」と看護師が寂しそうに言ったことを、今でも覚えています。
悲しいことに、似たようなエピソードはもっと沢山あります。
私達が知らないだけで、もっと悲しい現実は隠れているかもしれません。
我が子を受け入れられない親、また病気を持った子供を受け入れられない他人がいる事実は、失くせません。それぐらい、病気を持つ子供の受容は「親だからこそ、乗り越えられない」こともあるのです。
それを他人が「身勝手」「信じられない」と批判する権利も、あります。批判をするのは自由です。
しかし、他人が何を言って何を思ったって事実は変わりません。
その他人に「じゃあ、あなた変わりに育てなよ」って言ったって、どうせ何もできないんですから。
すべての親が受容できると他人が思い込むのは、乱暴な思想だ。
その人の性格や、育った家庭環境、関わってきた人間関係、障害者や病人と深く関わったことがあるかないか、医療や福祉、保育関係と関連があるかないか、本当に、人によって違うのです。
親が「育てられない」と感じたのならば、もう育てられないんです。
他に理由なんて、ありません。
それだけ、人は「病気を持った子供」に不安を抱えます。
産まれた後ではなく、産まれる前に知ってしまう残酷さ。
ただ、親が抱く「不安」の正体は、ただの差別ではないと思います。
「産まれる前」だからこそ、悩む理由が沢山あるのです。
望んだ妊娠で、数ヶ月もお腹の子を愛していたのに、「病気だとわかったので中絶しまーす」と軽い気持ちで処置の苦痛を味わって、またすぐにお腹の子を忘れて次に進める人は…多分いないと思います。心を切り替えられたとしても、生きていれば、罪悪感に襲われる瞬間は絶対どこかでやってくる。
自分達が果たして「育てられるのか」という問題は、「その子をちゃんと幸せにできるのか」という一種の「愛の形」だと、私は考えます。
「産むか」「産まないか」
綺麗事無しで、自分達の生活環境や心理環境を踏まえた上で、ちゃんと向き合って考えなくてはいけない課題だと思いました。
②に続く