ヨシムラの日常日記

自分らしく、ゆっくり歩いて行こう

雑談「胎盤ポリープだってよ」

 

 9月1日

 退院後2回目受診〜〜〜

 

 胎盤ポリープの診断!!!

 

 出血はそこからが原因だそうじゃ( ͡° ͜ʖ ͡°)

 なんか昨日の夜から生理2日目レベルの出血だったけど、結果ポリープだってさ。

 

 カテーテル治療も検討って前回言われたけど、子宮動脈塞栓術調べたらめちゃくちゃ嫌なことばっか書いてあり再度相談。

 子宮全体の血液止めて短時間でポリープ切除って無理あるやんけ。子宮にダメージ食らうやつじゃん。しかも大出血したらそのまま子宮全摘になるかもとか。

 

 今の私にデメリットしかないので、

自然排出でお願いしますっ!!

 経過観察でたのむ〜〜〜とお願い(T ^ T)

 

 

 早い人で2週間、遅いとポリープ取れるの半年かかるそうな。

 それまで大出血リスクと共存だそうです。

 とりあえず子宮収縮の薬と鉄剤処方されてまた飲めって言われた。

 

 

 へへへ、訪問看護どうすればいいですかって先生に相談。

 「自転車、んんん〜〜〜〜あんまりおすすめできんですね」

 

 はい、会社と働き方相談することに決定しました。

 

 

 激しく動けないので、デイサービスもあかん。系列施設もあかん。

 かと言って退職もこの状態じゃ無理。転職なんて、無理。

 てか看護師としてしばらく働けなくね?と焦り始める。

 でも金ないから働かないといけないので、課長に相談することに。。。。

 

 

 結果、事務業務に移動決定・・・!

 

 訪問看護のね、事務ですってよ。

 あんまりやりたくなかったんだけど、文句言えぬ。

 パソコン業務と電話対応だから体使わないからってね。

 10月から働きます。

 

 

 総合病院で働くとか夢のまた夢になりました。。。

 小児科とNICUは体調整ってからだな(T ^ T)

 てかこのままポリープ直して今の会社で妊活してそのまま育休でもいい流れや。

 

 んん〜〜〜〜

 まあ、とりあえず体調治すこと優先します。

 大出血したら、すぐ救急車かな。

 

 

 万が一、子宮全摘したらもう子なし人生も覚悟決める!!!

 犬か猫飼う。あとは姪っ子と甥っ子を愛でる!!!

 

 

 

 

 

 

あとがき

 

 妊娠から死産まで完結しました。

 まだほんの1ヶ月前の出来事です。記憶が新しいうちに自分の気持ちの整理と振り返りのために、この話を書こうと思いました。

 勢いで書いているので誤字脱字と変な文章多いと思いますが、それは後々また読み返して修正します(笑)

 

 私は「中期中絶」を決意しての「死産」だったため、万人受けはせず、世間では批判されるような表現を書いているかもしれません。その自覚は、あります。

 その中で、自分が感じたことを思いのままにこのブログに残しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お腹の子に重い病気があるとわかった瞬間。

 きっと色んな人がショックを受けて、泣き崩れたかと思います。

 

 私の場合は、子宮血腫、NT肥厚、そして脊椎異常の指摘がありました。

 

 受ける予定はなかった遺伝子カウンセリングを受けて、染色体異常の子供の特徴を教えてもらいます。最初のカウンセリングでは、「検査をするかしないか」までを確認しますが、検査後はどの妊婦にも「妊娠を継続するか」という質問が必ず待っています。

 

 染色体異常の病気も、合併症の種類によっては軽症のものもあり、長年生きられる子もいます。何回も手術をすれば、生命に関わる臓器障害も完治することもあります。検査を重ねることで、自分の子がどんな障害があって、どんな治療が必要で、どんな医療ケアが必要とされるのかを判断していきます。

 しかし、それは「産む」選択肢を持った人達が進む未来。

  

 私は最初、検査を拒否しました。中絶を考えること自体が嫌だったんです。

 「どんな病気や障害を持っていても、絶対に産みたい」と。

 しかし、それはあくまで「私」の意見であり、夫は「病気の子は堕して欲しい」と反対の意見を訴え、すれ違ったこともあります。私の実母も「ちゃんと考えなさい」と中絶も視野に入れるよう言われました。

 もし夫や実両親、義両親が「どんな子でも産んであげよう。皆で育てよう」と言ってくれたら、こんなに苦しんで悩む必要は無かったかもしれません。でも、それは本当に限られた、恵まれた環境が揃ったことで成立する現実でした。

 

 金銭面、家族のサポート体制、仕事状況。そして母親と父親、どちらも「どんな子供でも育てていきたい」という受容があるのかどうか。我が子が「産まれてきて良かった」と思える環境かどうか。

 

 …残念ながら、今の私達夫婦には、その環境は難しいと考えました。

 

 結果、息子は染色体異常ではなくLBWCという特殊な病気が判明したわけですが。多発奇形を起こしており、心臓は動いているも、予後不良と診断を受けます。

 そこで、また違う選択肢を突きつけられました。

 

「心臓が動いているが、まだ妊娠を継続するか」

 

 この問題、どの人も悩むのではないでしょうか。

 小説では「中絶」に対して前向きな感じで書いていますが、かーなり毎晩悩みました。

 

「染色体異常だったらどうする」から「心臓は動いてるけど、この子は生きられない」に問題が変わったんですよね。全く違う視点に切り替わるも、どっちも共通するのは「赤ちゃんの命を諦める」という事実でした。

 

「産むか、産まないか」

「いつまで妊娠を継続するのか」

 

 この2つの問題と立ち合い、当事者となった私は本当に頭を抱えました。

 

 子宮の外では「死」が決定しているのに、子宮の中では「生きている」から、どこまでその子を「生かす」のか、それは本当に悲しく、考えるだけで辛い課題です。

 まだ産まれてもないのに、死を待つしかない赤ちゃん。十分人生を全うして、死を待つ高齢者とは、また死生観が異なることを、知りました。

 

 

 自分に置かれた立場を考えた結果、私達夫婦は2回も自分の子を殺す決意をしたことになります。

 本当に、精神的に狂うかと思いました。実際、少し狂っていたかもしれません。

 この時だけは、自分が看護師で良かったと思っています。医師や夫、職場の前では看護師モードになるのでちゃんと根拠や論理的な思考で平然としていられたのですが、一人になると罪悪感に襲われて、毎日隠れて泣いていました。

 

 これが、中期中絶の「残酷さ」だと知りました。

 望んだ子を諦めることは、決して簡単な選択ではありません。

 しかし自分の置かれた現状を理解し、病むおえないと切り替えるしかないのです。

 

 私にとって、夫にとって、息子にとって。

 「私達家族が悩んで決めた、私達の幸せのため」の、選択です。

 そう思わないと、やっていけないのです。

 このことを他人に批判されても、私は仕方ないと思う。私達の苦難を共感することは、きっと難しいと思うから。かと言って、同じ境遇をすればいい、とは思えない。むしろ、こんな悲しい立場になる人が増えることを、望みたくない。 

 なぜ、その選択をしなくてはいけなかったんだろう?この人にはどんな背景があったんだろう?と深く考えられる人が増えることを、望みたい。

 

 

 中期中絶を覚悟した上で、入院をした結果。

 息子は心拍停止と診断され、自然死産という形で産まれました。

 中絶を覚悟した上での死産だったため、私は罪悪感が少しだけ、おりました。

 これは、息子が私達の悲しみを少しでも軽くするために、選んでくれたのでは…と思っています。

 

 結果、私は今「後悔」はありません。 

 どんな形のお産になったとしても、息子を心から愛していたと、胸を張って言いたい。

 

 

 そして、またご縁があるなら、子供がほしい。

 その子がどんな病気で、どんな障害で、どんな壁があったとしても。

 私達はまた「後悔しない」選択を、悩んで悩んで、選んでいくと思います。

 また「奇跡」と向き合っていくと思います。

 笑い合える、泣き合える、そんな家族になれると信じて、生きていきます。

 

 

 訪問看護をしている利用者さんの中で、90歳の認知症の女性がいました。その方は、1回思い出すと、ずっと流産と死産した経験を繰り返し話す人でした。

 お米の洗い方や、住所や電話番号は忘れているのに、子供のことは覚えているんです。子供のことをいつまでも覚えているなんて、本当に優しいお母さんなんだなって、感じました。

 私も、そんなおばあちゃんになりたいなんて、今なら素直に思います。

 

 

 

 妊娠と死産まで =END=

妊娠から死産まで最終話「おかえり」

 

 

 病院を出た後は、ずっと我慢していた寿司を夫と食べに行った。

 大好きだったネギトロやエビを味わい、こんな形で食べる予定ではなかったのに、なんてぼやいた。でも久しぶりに食べたチェーン店の寿司は、本当に美味しかった。

 

 家に帰った後は、すぐにシャワーを浴びる。

 出産後の独特の生臭さが気になっていたので、鉄の匂いが消えてやっとスッキリした。服を洗濯して、荷物を整理して。夫を仕事に送り出して、夕方は少しベッドで横になった。

 

「ふええええん、ふええええん」

 

 2階から聞こえるアパートの住人の赤ちゃんの泣き声が、やけに響いた気がする。赤ちゃんの声が聞こえるたびに、私は自分のお腹を無意識に撫でた。

 

 

 そして、その日の深夜。

 子宮収縮の薬を飲んでいるため、やけにお腹が突っ張るように痛かった。何度も何度も、トイレに行っては便器は血液で赤く染まる。1週間は生理のような出血が続くと言われたため、そこまで驚くことはなかった。胎盤の残り粕のような、小さい塊がいくつか出てくる。それをトイレットペーパーで拭き取り、また虚しい感情が込み上げてきた。

 

 ヨレヨレの状態でベッドに戻り、隣に寝ていた夫が起きる。

 

「大丈夫?」

「…うん。なんか、塊が出てきた」

「そっか…」

 

 ボロボロと涙が溢れ、寝ている夫の胸に縋った。

 

「うう…っ。うう〜ひっぐ。どんどんお腹が綺麗になっていぐよお…」

 

 妊娠してから、初めて夫に縋って泣いた。

 もう、大和はお腹にいない。不要になった組織を排泄していく体が、妊娠前の状態へ戻ろうとしている事実が虚しくなった。

 子供のように泣きじゃくっていると、夫が私の下腹部に手を置いた。

 

「また戻ってくるよ」

 

 その声と手が温かくて、優しくて。じんわりと、安心した。

 

「…うん」

 

 その日は本当に久しぶりに、夫と手を繋いで寝た。夫の隣がこんなに心地良いと感じたのも、久しぶりだったかもしれない。

 その後は、不思議とゆっくり眠れた。2日ぶりに、しっかりと睡眠が取れた。

 

 

 

 

 

 ずっと泣いている訳にもいかず、翌日はもう気持ちを切り替えた。

 大和の骨壷を置く場所を作るため、部屋中を綺麗にし、部屋を模様替えする。以前はキッチンカウンター変わりにしていたカラーボックスを寝室へ移動し、仏壇スペースを作った。

 子供のおもちゃになるようなものを探し、夫が仕事で使うボールと、私が幼稚園から大事にしている猫のぬいぐるみと、オーストラリアで買ったペンギンのぬいぐるみを飾る。病院で貰ったアルバムと、ネームバンド、エコー写真、マタニティマークも飾った。

 

 母子手帳も飾ろうと思い浮かび、久々に中の内容を確認する。

 妊婦自身の記録は、遺伝カウンセリングを受けたとこで止まっていた。LBWCと診断されてから、書くことをやめていたのを思い出す。

 自分の血液型や、検査の記録も、書いていない。データは手元にあるのに、これも忘れていた。

 出産時記録は、Fさんが記入してくれており、病院の判子も押されている。

 

「……書くか」

 

 手帳はもう不要になってしまったが、ちゃんとした記録を残したいと思い立つ。

 

 病院で貰った資料を漁り、自分の検査データを確認した。検査の結果、性的な感染症は無かった。子宮頸がんも陰性。

 最初の検診から体重は6キロも痩せており、BMIはとっくに正常値だった。もっと早く痩せていれば血糖値検査なんかやる必要なかったな…なんて心の中でぼやく。

 まあ、妊娠中に6キロも痩せたら大問題なのと、コロナ罹患と精神面での食欲低下が原因のため、健康的な痩せ方ではないが…。

 

 ありのままの感情を振り返りながら、妊婦自身の記録を書いた。

 5ヶ月で終わってしまった妊婦期間。短かかったが、その5ヶ月の思い出は本当に濃密で、私の宝物だと強く思った。

 

 

 

 明日は、大和が骨と灰になって帰ってくる。

 

 綺麗な花を準備して、お菓子を買ってあげて。

 我が家でひっそりと、追悼式兼、誕生日会をやろうと思った。夫にすぐ連絡をし、明日お酒と子供用のお菓子と、ケーキを買ってくるよう伝える。出前で寿司を取ることも伝え、息子の帰りを待ち侘びた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 8月6日土曜日。この日は快晴だった。

 9時から、大和の火葬が始まる。

 赤ちゃんの骨は脆いため、骨が少しでも残るように火力が弱い朝一番の時間で行われるとのことだ。

 夫は仕事に出かけるため、歩きながらで良いから黙祷するよう伝言した。

 自宅で待機していると、8時半頃に葬儀屋から骨壷に名前を入れるかどうか確認の連絡がきた。名前を掘ってくれるらしく「ぜひお願いします」と伝える。

 

 時計の針が9時をさしたのを見て、私は部屋から空を眺めて黙祷をした。

 

 

 そんな中で、ぐるぐると、とある思考が巡る。

 死産は一体、いつを「死」と捉えれば良いのだろうか。

 

 

 お腹の中で心拍が停止した時なのか。それとも産まれた時なのか。法律では、出産した日になっているが、人間はそもそも心臓が止まることに死を定義付けている。なぜ胎児の週数で、死産の行政手続きや火葬や葬儀の対応を分けているのだろうか。

 宗教によって、魂がいつのタイミングで天国に向かうのか定義はバラバラだ。火葬して天に向かう説もあれば、まだしばらくはこっちの世界にいて、ふよふよ浮いてるなんて説もあり。骨に宿るなんて説もあり。

 火葬でもお坊さんがお経を唱えて、でも供養の時もお経を唱えて。納骨の時もお経を唱えて。

 

 ・・・何が正解なのか、よくわからない。曖昧なことでこの世は溢れていると思った。

 

 大和の体は今日無くなるが、魂は一体今どこにいるんだ???

 

 そんな疑問が浮かんだが、考えても無駄だと諦める。

 今、大和の体は燃やされた。そして、骨になって、帰ってくる。

 これだけで、いいと思った。

 

 ドラマ『コウノドリ』の挿入曲『Baby,God Bless You』をBGMにしながら浸り、洗濯したり掃除したりしていると、家のインターホンが押された。

 

「え、まだ9時40分だよ!?早くない」

 

 まさかと思い、インターホンに出ると葬儀屋だった。  

 

「◯◯さん、お待たせしました。無事に、お連れ致しました」

 

 もっと時間かかるかと思えばなんと、大和は火葬されて40分で帰ってきた。一番近い火葬場を選んだのだが、胎児のサイズ的にそこまで時間がかからないのだと改めて知る。

 大和は小さくて白い骨袋に包まれており、祖父母の葬儀時を思い出した。

 

 現金を葬儀屋に支払い、お礼を言って大和を受け取った。

 

 その軽さに、また驚いた。ほとんど壺の重さしか感じない。56gしかなかったから、当然と言えば当然。しばらく骨壷を抱っこして、私は家の中を散歩した。

 

 そして、準備していた仏壇スペースに骨壷を置く。

 

 写真や母子手帳マタニティマークなど、大和の思い出や、可愛いぬいぐるみやボールで囲んであげた。

 

「おかえり、大和」

 

 大和の魂は、私の傍にいると感じて、言葉をかける。

 今日は、お祝いしよう。

 死んだことを悲しむよりも、産まれたことを喜びたかった。

 

 

 

 

 

 

 その日の夜は。

 特上寿司を出前で頼み、唐揚げを買って。冷蔵庫に余っている食材でサラダと副菜を作ってテーブルに並べた。なかなかのご馳走が揃う。

 夫がビスコと動物のクッキー、ケーキ、そして綺麗な花を買ってきてくれた。ひまわりやカーネーションの、綺麗な花だ。私はすぐに花瓶に花をうつした。

 骨壷を仏壇からリビングに移動させ、お誕生日席にセット。花瓶を置いて、お菓子を供えて献杯した。

 夫はビール、私はコーラ、大和はお菓子。

 

 ご飯を食べながら、入院のこと、病気のこと、大和のことを、沢山話す。

 

 テレビで丁度『千の風になって』が流れ、少しうるっとしたのは夫に内緒だ。

 そんな家族3人で過ごした最初の夜は、とても和やかだった。その光景を写真で母親に送ったら、すぐにスタンプで「いいね」が届く。 

 

 家族で食事を囲むことが、私にとっての「幸せ」だった。

 

 

 

 

 大和を抱いて泣いた時、夫にどんな気持ちだったか聞いてみた。

 

「色んな感情があったけど、あれかな。俺、父親になれなかったんだって、思った」

 

 私とは逆の感情を抱いていた夫。

 少し寂しげな表情の彼に、私は素直な気持ちを伝える。

 

「いや、もう立派な父親だよ。大和、きっと喜んでたよ。仕事をあんなに休ませてごめんね」

 

 仕事を休んで、一緒に検診に来てくれたこと。仕事を休んで、出産に立ち会ってくれたこと。一緒に、泣いてくれたこと。それだけでも、立派な「父親」だと思った。

 不安だった私に、一緒に寄り添ってくれたことが嬉しかった。

 

「本当に、あなたが父親で良かったって、私は思ったよ」

「…そっか」

 

 この人を選んで良かった。この人との子供で良かった。

 本当に、素直にそう思えた。

 

 

 小さな命を失った人達は、沢山いる。私もその中の一人になった。

 

 また、夫との間に子供が欲しい。

 また、子供を望んでも良いのだろうか。

 

 希望と不安、相違する感情と向き合うことが、これからの私の課題になっていく。

 

 

 

 

  

 

 産まれてくることを「当たり前」にしてはいけない。

 健康でいられることを「普通」にしてはいけない。

 産まれてきた命、生きている命は「奇跡」

 

 「私達」という奇跡は、「正しい」「正しくない」で選別する必要はない。

 どんな奇跡でも、一人一人の背景や心情を理解して、向き合っていくことが大事なのではないだろうか。

 

 悲しんだり、苦しくなったり、怒ったり。嫉妬したり。色んな感情に振り回されて、しんどくなって。自分は何をしているんだろうって、何がしたいんだろうって、迷子になることもある。

 でも、それでいい。

 そうやって転んだり立ち止まりながら、人は少しずつ前に進んでいくと思うから。

 

「生きていく力」を生み出すのは、自分しかいないから。

「生きていく力」を支える誰かは、きっと近くにいるはずだから。

 

 息子に、私が母親で良かったと思えるような、人間になりたい。

 私が、この子のママだよって、胸を張れる人間になりたい。

 

 自分が幸せかどうかは、自分が決める。

 

 だから私は、これからを生きていく。

 自分が「死」を迎えるその日まで、私は「私らしく」生きていきたい。

 

 まだしばらく、ママはこっちにいるね。

 私がそっちに行った時は、あの子に笑顔で迎えに来て欲しいと、願っている。

 

 

『妊娠から死産まで』〜END〜

妊娠から死産まで23「お願いします」

 

 大和と過ごした最後の夜は、2時間ぐらいしか寝なかった。

 なるべく腐敗させないように室温は20度近くまで下げて、ガンガンに部屋を冷やしたこともあったかもしれない。寒い中眠れず、起きては抱っこしたり、顔をのぞいたり、触ったりを繰り返した。

 外は大雨で雷が鳴っていた。

 

「うわ、外すごいな。ね、大和」

 

 そうやって、声をかけながら過ごした。

 大和の顔を見るたびに泣いたり、大和の顔を見るたびに笑ったり。私の精神状態はまったく安定していなかったが、親子で過ごす最後の時間をゆっくり過ごせたと思う。

 

 気づけば雨は止んで、外は明るくなり朝になる。

 時間は止まってくれない。

 今日の天気は曇りのち晴れだと、テレビで確認した。

 

 

 

 「◯◯さん、おはようございます」

 朝の検温時に、Fさんが昨日作ったアルバムを持ってきてくれた。

 アルバムには、大和の顔写真が貼られ、手足の形スタンプが可愛く装飾されている。ベッドネームとネームバンドも入っていた。まだ保険証が更新されていないため、旧名で書かれていたが、私が手書きで書いた新名もあり、両方の名前を持つのは贅沢だと、なんだか笑えた。

 思い出の品のほかに、Fさんからの手紙も入っていた。

「恥ずかしいから、あとで読んでください」と照れるFさんに言われた通り、検温が終わった後に内容を読む。

 

 その内容に、また号泣した。

 

『お腹の中でお母さんが感じていた幸せな気持ちや思い出はきっと大和君も覚えていてくれていますね。その思い出はきっとかけがえのないものだと思います』

 

 Fさんの優しさが、とても身に染みた。

 その手紙は大和のアルバムにずっと挟むことに決める。

 

 そのあと、偶然にも昼間担当だったEさんにも会うことができた。

「夕方産まれたんだってね! 顔見に行ってもいい?」と今日の担当でも無かったのに、わざわざ病室に来てくれた。

 昨日の出来事を一緒に振り返ってくれる。

 

「昨日、夫が仕事に行くギリギリで産まれてくれたんです」

「そっかそっか。パパとママがいるところで産まれたかったんだね」

「本当に、タイミングを読んでくれて、私も助かりました。でも、心臓が動いてたらまた違った気持ちだったかも…なんて」

「そうだよね。心臓が動いてたら、また違ったかもね…」

 

 Eさんが、目を滲ませて、鼻を啜った。

 

「あ、ごめんね。本当はこんな時に泣いちゃいけないんだけどさ。でも、私も慣れてないっていうか…まあこういう別れ方は慣れたらダメだって、言われてるんだけど。やっぱりさ…辛いよね」

「…はい。ありがとうございます」

 

 私も、Eさんにつられて泣いてしまった。

 私も、大事な人を亡くした家族と一緒に泣けるような人間になりたい。今までは、泣いてはダメだと教えられてきたが、今は、医療職だって泣いてもいいんじゃないかって感じる。

 Eさんも、Fさんも、他の人達も。ここで働く産科のスタッフは、みんな患者に寄り添える素敵な人達が多いと思った。

 

 

 

 

 

「出血はまだ少しありますが、今日退院にしましょうか」

 

 朝8時に、A先生の診察を受ける。

 経膣エコーの結果、退院の許可が出るも、A先生は少しだけ眉をひそめていた。

 

「ただ、まだ胎盤が少しだけ残っています。爬行処置するか悩むところなんですが…。とりあえず、自然に排泄されるか様子を見ていこうと思います。次回は、2週間後に診察予約を入れますね」

「わかりました」

 

 抗生剤と、子宮収縮剤と、鎮痛剤を処方される。

 出血量が増えたり、高熱と腹痛があるようならすぐに連絡するよう説明を受け、私はA先生に頭を下げた。

 

 病室に戻り、帰る身支度をせっせと整える。

 夫に朝9時に病院に来てもらい、親子3人で残りの時間を過ごす予定だ。 

 退院準備が全て完了したら、大和は葬儀屋に引き取ってもらう。息子を送り出し、私達もそのまま退院になる流れだった。

 

「おっす。来たよ」

 

 夫は時間通り9時に到着。

 

「大和、パパ来てくれたよ」

 

 ベビーコットにいる大和を覗き込み、また夫は泣いた。大和を抱っこして、じっと見つめ合う。意外なことに夫も大和の体に興味津々で、ドレスを捲って臓器を観察していた。

 

「これ何?」

「肝臓。んで、このミミズみたいなのが小腸。あ、大腸も見えるね」

「ほう。足もちっさ」

「右足やっぱり取れちゃったみたいで、クリップでくっついてる状態なんだよ」

「なるほどね」

「足長いでしょ。目も大きくて、助産師さんがあなたに似てるって言ってたよ」

「え?そう?」

「DNAってすごいよね」

 

 そんな会話をして、笑った。しんみりした雰囲気より、少し明るい雰囲気の方が、大和も喜ぶと思ったから。二人でアルバムを見て、Fさんの手紙を読んでまた泣いて。

 

 そうやって時間を過ごしていると、葬儀屋さんが来た。

 

 火葬のコースと流れについて再度説明を受け、契約書にサインを書く。

 死産届を先生に書いてもらったのだが、私の名前は旧名になっていた。住民票が新名になっているため、役所では新名で提出する必要があるらしく、葬儀屋に指摘を受けた助産師さん達が慌てていた。訂正が必要になり、また退院準備に手間を取らせてしまう。

 出生時一時金の手続きも、保険証を変えてからの方がいい、と事務スタッフから言われてしまいかなり面倒だった。

(後に知るが、私の新名の保険証は年金機構で手続きが止まっていたらしく、そのせいで郵送が遅れていたそうな…。しっかりしろ行政)

 退院後に請求を確定するため、支払いは次回受診時になった。

 保険証問題がここまで迷惑をかけるとは知らず、デキ婚は少し考えを改めたほうがいいか…なんて考える。

 

 

 そんなこんなで、全ての退院準備が済んだのは、結局12時近くになっていた。

 

 

 「そろそろ、赤ちゃんをお棺に移動しましょうか」

 

 本日担当の助産師さんにそう言われ、私と夫は気を引き締めた。作った棺桶を準備して、少し手が震えた。蓋に貼ったシールを見て、助産師さんも可愛い、と褒めてくれる。

 赤ちゃんドレスごと、私は手作りの棺桶に大和を移した。折り紙鶴を4羽、そして夫婦で書いた手紙を大和の布団の上に置く。

 

 棺桶におさまった息子を見て、またブワリと感情が込み上げた。

 涙が止まらず、しばらく大和の顔を見つめる。

 

「よかったら、皆さんの写真を撮りましょうか? 折角、こんなに素敵なお棺もありますし」

 

 助産師さんが、写真を提案してくれた。

 

「お願いします」

 

 夫が、私より先に答えた。

 夫が棺桶に入った大和を抱いて、私は装飾した棺桶の蓋を持つ。

 全部で、5枚。目と鼻が赤くなった私と、夫。その表情は穏やかなものだった。

 

 

 写真を撮って、大和を見つめて。我が子の最後の姿を目に焼きつけ、棺桶に蓋をする。

 すぐにB先生と師長さん、葬儀屋が病室に入ってきた。

 B先生と、師長さんが一緒にお見送りをしてくれるとのことだった。師長さんはコロナの件で何回か電話でやり取りをしたことがあり、今回が初対面となる。とても優しそうな人だった。

 

「わあ、このお棺すごい。手作りですか?」

「可愛い」

 

 B先生と師長さんが褒めてくれた。まだ大和と対面していなかった先生が「お顔見せて」と言って蓋を開け、大和の顔を覗いてくれる。生きているように、普通の子と同じように接してくれることが嬉しかった。

 

「一緒に、エレベーターまで見送りますので、よろしくお願いしますね」

「はい。お願いします」

 

 病院の別れって、こんな感じだったな…なんて懐かしく感じた。

 自分がこんな早くに見送られる立場になるとは、想像もしなかった。

 

「では、そろそろ…お支度を。準備は、よろしいでしょうか?」

「はい」

 

 師長さんが声をかけてくださり、私と夫は荷物を持った。忘れ物の確認をしてもらい、最後に大和の顔を見て、蓋をする。

 葬儀屋さんに大和が入った棺桶を渡すと、その人は改めて、頭を下げた。

 

「では、御子息は我々が責任を持って、お預かり致します」

「…はい。よろしくお願い致します」

 

 師長さんに案内され、私達は病棟の裏側の通路を通って、病院関係者専用のエレベーターホールへ向かう。

 私達と葬儀屋の帰る出口は違った。

 地下からエレベーターが上り、葬儀屋さんと大和だけが、先にエレベーターに乗る。

 

「では、明後日の8月6日。火葬が終わった後、担当の者がご自宅まで責任を持って、お届け致します」

「はい。よろし…」

 

 そこで私は言葉が詰まる。

 

 (連れて行かないで)

 

 私の赤ちゃん、連れて行かないで。

 脳裏で浮かんだ、本音をグッと堪えた。

 

 だめだ。だめだ。だめだ。「私」じゃダメだ。私になった途端、また泣き喚いて、棺桶にすがって、周りに迷惑をかける姿が浮かんだ。もう一度、最後に大和の顔を見てしまったら、もう離れられなくなると思った。

 ここは病院。「私」の気持ちを無理やり押し込め、「看護師」の仮面をかぶって、私は深々と無理矢理頭を下げた。

 

「よろしく…お願いします…」

 

 鼻水を啜りながら、絞るように声を出した。

 B先生と、師長さんと私達夫婦で、エレベーターが全て閉じるまで、お辞儀して。

 

 そうやって、大和の亡骸とお別れをした。

妊娠から死産まで22「どんな姿でも」

 

 

 「◯◯は、本当に良く頑張ったよ。お疲れ様」

 

 夫は、私にそう伝えて仕事に行った。夫だって、朝から付き添って疲れているだろうに。死んだ我が子の姿を見て、どんな気持ちで仕事に向かうのか・・・と心配になった。コロナ療養もあり、これ以上は欠勤ができないため仕方ないとわかっていても、父親だって死産後の仕事は、きついと思う。

 

「行ってらっしゃい」

 

 私は精一杯のエールを込めて、夫を送り出した。

 

 

 Fさんに付き添ってもらい、私は大和と一緒に自室に戻った。350mlほど出血したらしいが、案外平気で動けるものだと、女性の体の逞しさを知る。

 

 沐浴は、脆い皮膚のためやっぱりできなかった。大和は簡単に助産師さんに体を拭いてもらったらしく、私達が選んだ黄緑の赤ちゃんドレスを着ている。着ているといっても、下に敷いてその上から包まれているような状態だ。直接抱っこはできず、タオルごと抱っこしなければいけなかった。

 

 自室に戻ったのは、結局20時近くだった気がする。

 遅めの夕食をとり、我が子との時間を過ごした。

 

 

 改めて、まじまじと我が子を観察する。

 自分の子に失礼だと思うが、思ってた通り、中々グロテスクだと素直な感想が出る。頭蓋骨の一部が欠損し、脳が飛び出ていると言われていたが、脳というより頭部自体がペチャっと水膨れのようになっていて、歪んだ頭をしていた。

 未熟の大和は、口唇口蓋がまだ裂けている状態だ。形成される前のお産となったため、猫のような口元だった。

 黒くて大きな目は半開き。瞼が薄すぎて、閉じてあげることはできない。

 

 腹壁破裂のように、内臓はいくつか外に出ていた。

 肝臓と、胃と、小腸。パッと確認できるのはこの3つぐらいだった。解剖で見た、成人の何十倍の小ささだろう、と冷静に考えてる私。膀胱あたりに心臓があると聞いていたが、外面からは見れなかった。

 

 (こんな状態なのに、心臓は頑張って動いていたのか)

 

 はたから見たら、自分の赤子のそんな残酷な姿を冷静に観察するなんて、どうかしてると思われるかもしれない。

 

 でも不思議と、嫌な気はしなかった。嘘ではない。

 

 大和の右足が、体とクリップで繋がれていることに気づく。おそらく、出産の時に右足が千切れてしまったのだろう。誰かが「足が・・・」と言っていたことを思い出した。私達が夫婦がショックを受けないように、先生達が体を繋げてくれたのだ。私は、A先生達に感謝も込み上げる。

 

 人差し指で頬を撫でたり、手を触ったり。ぺたぺたした冷たい皮膚を、しばらく何も考えずに触っていた。

 

 

 

 

 この子と一緒に過ごせる時間は、明日の昼までだ。

 私はてっきり家に一度連れて帰れると思っていたのだが、友引も関連して火葬場が明後日休みになるため、予定通りの別れができなくなった。大和の皮膚では、腐敗が進みやすく、真夏のこの時期、2日間も家に連れて帰るのはどうか…と葬儀の担当者から相談された。

 

 一瞬、自宅安置ができないことに私もショックを受けるも、腐敗が進むのは可哀想だとすぐに切り替える。家の冷蔵庫に保管するわけにもいかない。火葬場の保管場所に預けた方が、一番体が保持しやすい。

 

 そして、火葬に立ち会うか立ち合わないか・・・私達は立ち会わないことを決める。

 

 夫がどうしても火葬日に仕事を休めなかったこともあった。私一人だけで火葬に立ち会っても良かったが、一人で火葬場に行ったら泣き崩れる自信があった。本気の本気で、心が崩れる気がして怖かった。

 大和が骨になった姿で、家に帰ってくるのを待つことに決める。

 

 

 だから、限られた時間しかないから。

 夫がいる間に、大和を産みたかったのだ。

 

 

 全てが偶然なのだが、コロナの療養といい、出産といい、家族の時間を作ってくれたこの子は、なんて良い子なのか…としみじみ息子を褒めた。

 写真は撮らずに目に焼き付けようかと悩んでいたが、やっぱり写真が欲しいと思い、スマホを取り出して我が子の撮影をする。もちろん、ちゃんと臓器を隠してだ。

 

 そんなとき、Fさんが色んな小道具を持って病室に入ってきた。

 

「お疲れ様でした。今点滴を抜きますね。着替えもしましょうか」

 

 点滴を抜いて、血塗れになった分部着を脱いで。簡単に汗拭きシートで体を拭いて、パジャマに着替える。やっと身軽になれてスッキリした。

 

「アルバムと、カメラと、足形と手形と、ネームバンドお持ちしました。一緒に手形と足形、取ってみましょうか」

「ありがとうございます!」

 

 幼稚園で使った、形取り用のスタンプパッド。産声アルバムと、大人と子供両方のネームバンドがあった。

 Fさんと一緒に、手形と足形を苦戦しながら取っていく。大和は両手、両足も奇形しているため、なかなか形取りが難しかった。

 

「ごめんね〜ちょっと腕曲げるね」

「がんばれ〜。もうちょい!もう1回!」

「足も触るからね〜」

「服押さえます」

 

 ほとんど、形取りしていたのはFさんで、私はドレスを押さえる、声かけしかしていなかったが…笑

 でも、その思い出作りが楽しかった。1cmにも満たない我が子の手足の形が紙に残ることに、私は自然と笑顔になる。

 そして、Fさんが病院のカメラで大和の写真を撮ってくれた。ドレスもうまく映るように、綺麗に撮影してくれる。

 

「本当に、目がぱっちりしてて大きい。足も長いですね。お父さんにそっくり」

「え、そうですか? ああ、確かに言われてみると…。鼻がぺっちゃりなのは、私かと思っていたんですが」

「ふふ。お父さんにお会いした時も、足が細いって思ったんですよ」

「あはは。短パン履いてましたからね」

 

 Fさんとたわいもない会話を続ける。

 アルバムに名前を書く蘭があり、私はぺんを借りた。

 

「名前は、大和にしたんです」

「大和君! 素敵な名前ですね」

「はい。男らしい名前がいいねって、夫と話をして…」

 

 そこまで声を出して、目の前が滲んだ。

 

「最初は、この子染色体異常の可能性があるかもって言われて・・・遺伝子カウンセリングを受けたんです。そこで、トリソミーだったら、どうしようかって話をして」

 

 話すつもりは無かったが、Fさんにポツポツと思いを零した。

 

「長く生きていける病気だったら、育てたいと思っていたんですけど…でも、13・18トリソミーだったら、どうしようかって悩んでいて…中絶も、考えていたんです」

 

 堪えていた罪悪感が湧き、私はまた涙と鼻水が止まらなかった。 

 Fさんがテイッシュを渡してくれる。

 

「…そうだったんですね」

「産むか産まないか、悩むのが怖くて。でも、今回、この子の病気を聞いて、生きられないってわかった瞬間、ホッとした自分がいて…。お腹で心拍が止まって、これで良かったんじゃないかって思って…」

 

 『これで良かった』

 それは、自分を守るための意味づけだった。

 「今回は」これで良かったなんて、何て最低な人間なんだろう。トリソミーの子どもを育てている親御さんに、失礼極まりない。

 

 勿論、大和にも。

 

 病気だとわかって、重たい障害を持って産まれるとわかったら?

 経済的理由で、育てられないからと。仕事を辞められないからと。また産めない理由を作り上げて。また、産むか産まないか悩んで。夫とまたぶつかって、自分達の親にも意見を求めて。

 不安に駆られて、苦しい毎日を過ごすことになる。

 

 そんな未来が、怖かった。

 生まれた後だって、重度の障害を持つ可能性は0ではないのに。

 そんなことを考える自分が嫌だった。

 

 なぜ産むか産まないか、悩まなければいけないのか…。

 

 「中絶」は選択肢だ。自分だけでなく、赤ちゃんだけでなく、「自分達の未来」のための、選択肢。

 「産まない」という選択に揺れた自分に、弱さを感じた。親になる資格はないと思った。

 客観的に冷静になれば、それはやむおえない理由だとわかる。

 

 でも、いざ当事者になったら、こんなにも苦しくて、怖いもので。

 頭がおかしくなるくらい、辛いものだと、初めて知った。

 

 

 「産むか」「産まないか」

 そんなの、今だって答えは出ない。

 

 

 

 

 

 「…そうですよね。もし、自分が同じ立場だったらって思うと…やっぱり、色々悩むと思います」 

 

 Fさんが、静かに答えてくれた。

 遺伝子カウンセリングの先生達も、「そうですよね」としか、答えられなかった。

 誰だって、すぐに答えが出ないのだ。医療従事者なら、尚のこと。医療ケアの責任の重さは、並大抵のものではない。簡単に「産めばいい」とは、言えない。簡単に「育てられるよ」何て言えない。

 綺麗事無しで、自分達がその子を本当に豊かに育てられるのか、真剣に考えなくてはいけなかった。

 

「すみません、なんかまた込み上げてくるものがあって…」

 

 Fさんを困らせてしまったことを、謝罪する。

 

 もっと、贅沢を言うならば。

 どんな病気だって、どんな重たい障害があって産まれてきても、誰もが認めてくれる世間で、誰も比較しなくて済むような、家族が幸せに暮らせる整った社会であってほしいと思った。子供の保険がもっと安く利いて、在宅サービスが充実していて、医療スタッフが揃った保育園や支援学校があって、健常児と障害児が触れ合える時間があって、両親が共働きできるような、どんな子でもどこにでも出かけたり、教育を受けたり、旅行に行けるような、そんな夢のような環境が欲しい。

 誰も苦しまないで、悩まないで、どんな子だって望んで「産む」を選択できる世の中になってほしいし、そんな国になってほしかった。

 

 しかし、それはすぐには叶うことのない現実。

 

 それでも、産んだ今ならわかる。

 生きることができると、希望があるなら。自分の子が生きられると、信じることができたら。

 どんな障害を持ってても、どんな姿でも愛せることは必ずできると思う。

 大和のような、体がぼろぼろの多発奇形児でも、可愛いと思えるのだ。自分の子の愛は、無限大。

 お金がいくらかかろうが、いくら大変なケアになろうが、そんなの関係ない。愛しい家族のためなら、母親は何だって乗り越えられるのでは、と思った。父親だって、同じだ。

 

 口先だけなら綺麗事は言えるけども。

 決して簡単なことではないけども。

 いざまた壁にぶつかったら、家族と揉めたり、追い詰められることもあると思うけども。

 

 そのための環境作りを、自分達にも準備できるのか、夫と一緒に考えていきたいと思った。

 

 どんな家族の形があるのか、知りたい。どんな生活をしている人達がいるのか、知りたい。

 

 

「でも本当に…この子を産んだことは後悔していません。初めての妊娠で、色んなことを教えて貰いました。産まれることは当たり前じゃないんだって、命の重さについて、痛いほど感じましたし…妊娠している時は、本当に、幸せだったので…」

 

 

 産むか産まないか、悩んだが。

 妊娠しない方が良かった、何て思わなかった。

 悩んだことも踏まえて、愛しい存在だったことは、確かだから。

 

「本当に、この子を産んでよかったと、思ってます。生まれ変わったら、また私に戻って来てほしいって、思います」

 

 それだけは、絶対に間違いのない事実。

 それだけは、素直に答えられる言葉だった。

 

「そうですね。大和君もきっと、同じことを思ってると思いますよ」

 

  Fさんはニコッと笑ってくれた。

 

 

 

 

 妊娠は幸せの一方で、中絶や、死産と言う闇があることに気づかなかった。悲しみに暮れる人達がいることを、知ろうともしなかった。 

 「自分は大丈夫、何となる」とか。

 「自分だったら辛いから」と、そんな理由で目を背けていた現実があった。

  

 知っているのに、避けていた自分がいた。

 

 そんな弱い私に、大和が教えてくれたのかもしれない。大和がいたから、気づくことができた。

 

 これからは、大和に胸をはれる母親になりたい。

 大事な人を亡くして、悲しむ人達に寄り添える人間になりたいと思った。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休憩 雑談タイム

 

 やっと出産までの話が書き終わったので、ここで空気変えて雑談します笑

 

 

 9月28日まで産休になり、今はだいぶ心も落ち着いてきました。

 ただ、2週間検診で胎盤遺残の指摘があり、次回受診が9/1です。。。

 

 大出血のリスク主治医から説明されまして、出血止まらなければ子宮全摘なんて言われたもので、かなりビビってます(°▽°)

 

  

 子宮全摘て、それだけは困る・・・っ!!

 子供ができない体になるじゃないかああああ泣

 

 

 家帰ってすぐに旦那と実家に連絡して、メンタルが沈みきっておりました。

 まあ大出血はかなりの確率らしく、子宮取るのも稀だと言われましたが、んな怖いこと言うなや!と怒りが込み上げてきたり。

 普通の生活はしてもいいけど、あんまり激しい運動するなと言われたり・・・。

 次回受診で血流まだあるようなら、MRI撮ってカテーテル治療検討するらしいです。

 

 産休なのに全然自由じゃないんか〜い_:(´ཀ`」 ∠):

 

 悪露も出てるんだか出てないんだか微妙であり、胎盤が自然排泄されない可能性もあり。

 メンタルがジェットコースターになり、情緒不安定や本当(笑)

 

 

 でもずっと不安がってても仕方ないので、冷静になって仕事をどうするか検討しています。

訪問看護は続けたかったのですが、出血リスクを背負って自転車漕ぐのはアカンのではないかと思い、退職を考えています。

 件数を減らすのは人員的にアウト、続けたところで絶対体に負担がかかると思い、自分の命と家族を優先しようかな〜なんて。

 

 しかし、そうなると今度は転職が死ぬほど面倒くさい。

 面接官に死産したこと伝えるのも絶対しんどい。。。

 でも私が働かないと我が家は火のぐるまです。夫だけじゃ食べていけないので(泣)

 

 そこで、うちの会社は訪問看護の他にデイサービスも経営しているので、そっちでパートとして働こうかと検討しています。

 そうすれば社会保険も継続できますし、手続きも簡単なので!!!

 

 んで、空いた時間でパソコンでできる在宅ワークやってみようかと思ってます。

 給料は減りますが、時間が作れるのはありがたいことなのかな〜と思ったり。

 

 出血は嫌ですが、これを機に働き方を変えてみようかと思います٩( ᐛ )و

 自分の体が1番大事ー!!

 

 ・・・そして、体調戻ったら。落ち着いたらば、いずれ小児科やNICUで働いてみたい気もしてきました。また総合病院に戻るのもアリかな〜と。

 このことについては、また違う日に詳細書きます。

 

 息子!! ママ頑張るよー!!!

 

 

 ・・・とりあえず、出血しないように祈るばかりだす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

妊娠から死産まで21「会いたかった赤ちゃん」

 

 

 自分でも呆気に取られていると、すぐに先生達が集まってきた。A先生がガウンを着て、医師と助産師合わせて5〜6人がエコーや諸々物品を準備していた。

 もう一度ナプキンの中身を確認したFさんが、慌ててナプキンを閉じた。

 

「先生、産まれてる!」

「了解」

 

 A先生がすぐに反応している姿が、見えた。

 そこからの記憶は、正直曖昧だ。私の下半身に人が集まり、色々と処置をしている。

 

「◯◯さん、赤ちゃん出てきましたよ〜!」

「今体重や身長を測定しますね」

「良かった、ちゃんと綺麗な形で産まれてきたね」

 

 色んな人から色んな声をかけられた。 

 

「足が・・・」

「今胎盤出ますからね〜」

「まだ胎盤残ってるかも」

感染症になる可能性もあるから、取り除けるところは取り除いて・・・」

「抗生剤出しておいた方がいいかもね」

 

 そんな会話や話声が聞こえたが、この時も、処置がかなり痛くて私は冷静じゃなかった。

 あとで聞いたが、胎盤が脆いため子宮の中でまだ残遺があり先生がかき出していたとか。終わったと思ったのに、麻酔もなくまた痛い処置の始まり。めちゃくちゃ下腹部を押されて、子宮の中を弄りられ、また鈍痛が襲ってきた。

 

「はい、大きく深呼吸してくださいねー!」

「力抜いて、力抜いて、もう少しだからね、頑張ろうね」

「あと少しですよー!」

 

 出産後は悲しみと喪失感を味わうと思っていたが、そんな暇はなかった。

 ただただ、痛みに耐えるのみ。大きく深呼吸を繰り返して、力を抜いて。Fさんに肩や腕を摩ってもらい、女医さんからねぎらいの言葉を受け続ける。私は呻きながらめちゃくちゃ顔をしかめた。この時、心の底からマスクをしていて良かったと思う。

 

 気が遠くなるような痛みに耐え続け、早く終われと何百回と唱え続け・・・

 

「はい、終わりました。お疲れ様でした」

「赤ちゃんも、お母さんも頑張りましたね」

 

 やっとのことで、処置が終わった。

 思ったより時間はそこまでかかっておらず、数十分しか経っていなかった。

 先生達が片付けに入り、Fさんから「今赤ちゃん綺麗にしてますから、もう少し待っててください」と説明を受ける。

 そして、子宮収縮剤の小さい点滴が投与された。

 

 シャワー室にいた夫を呼び出し、終わったことを伝える。

 

「・・・仕事、何時だっけ。間に合う?」

「19時にここ出れば、ギリギリ間に合う」

 

 この時の時間は18時過ぎていた。

 赤ちゃんの対面と先生の説明があるから、まだしらばく待つことになるだろうと夫に話す。

すると、子宮収縮剤の影響か、また下腹部の鈍痛が襲ってきた。

 

「痛い、痛い、痛いーーー! イタタタ、痛い痛い痛い!」

「え、今痛いの?」

「なんだこれ、痛い! 今が一番痛い!!」

 

 子宮を縮めている作用が、入院中の処置で一番痛かった。個人的にラミナリアよりも痛かった気がする。大人しかった私が、急に騒ぎ始めるものだから、さすがに夫が腹部を摩ってくれた。赤ちゃんがいなくなった後に陣痛のような痛みがくるなんて、なんて切ないのか。

 

「痛い、痛い、痛い。うう〜〜〜痛いよお・・・」

「誰か呼ぶ?」

「呼びたい」

 

 鎮痛剤が欲しくてナースコールを押そうか迷ったその時、A先生と、一緒に入ってくれた女の医師(多分B先生の代わりにA先生を指導している方)が入ってきた。

 

「お疲れ様でした。赤ちゃんは今綺麗に体を整えています。やはり大きさは、今の週数にしては、小さく産まれてきてしまいました。診察からずっと伝えている通り、臓器がいくつか体から出ている状態なのですが・・・赤ちゃんと、お会いになりますか? お母さんの中には、対面を拒否される方もいますが・・・」

「会います。会わせてください」

 

 A先生の説明に、私は即答で答えた。「今夜は母児同室もしたいです」と付け加える。あまりにも早く答えるものだから、先生は少し驚いた表情をした気がする。

 

「わかりました。では、赤ちゃんと会って、子宮収縮する点滴が終わったら元のお部屋に戻りましょうね」

 

 A先生から、無事に赤ちゃんと胎盤は出せたこと。出血量もそこまで多くないこと、でもまだ少しお腹に遺残がある可能性があり、明日また診察すること。そこで問題なければ明日には退院になることを説明を受けた。

 

 しかし、この時は痛すぎて全く内容が入ってこなかった。

 

「先生、今が一番お腹痛いです・・・」

「あ、そうですよね。収縮の薬使ってるからだと思いますが、痛み止めも使えますので、助産師さんにお願いしましょうか」

「お願いします」

 

 今すぐにでも鎮痛剤が欲しい、と思っていたその時。

 Fさんが入ってきた。Fさんがガラガラとベビーコットを運んできたのを見て、私は一気に大人しくなる。

 

「お待たせしました。赤ちゃんお連れしましたよ」

 

 白いタオルに包まれた我が子を抱っこしたFさんと、目があった。

 私は少し身を固くしてしまった。まだ起き上がれないため、見上げた状態で白いタオルを見つめる。

 

 

 

 

「体は崩れることなく、無事に産まれてくれました。小ちゃくて可愛い・・・男の子ですよ」

 

 

 

 Fさんが私の胸に赤ちゃんを渡してくれる。

 我が子を見た瞬間、不思議とお腹の痛みが消えた。両手の手のひらに収まりそうな赤い体、小さい手足。真ん丸の大きい黒い瞳に、ぺちゃっと潰れた鼻。足の間には、小さい小さい男の性器がちょこんと、ついていた。

 子供と初めて対面して、自分がどんな言葉をかけるのか想像がつかなかったが、思っていた以上に高ぶった声が出る。

 

「あああ〜〜〜やっぱり男の子だああああ」

 

 震える声と同時に、大量の涙が溢れた。

 男の子な気がすると、ずっと思っていた。なんとなく、感じていた予感が当たった。母親の勘が働いたことが、この瞬間すごく嬉しく感じた。

 

 名前は大和(やまと)、赤ちゃんドレスは黄緑で決定だ。

 

 そう決まったことが、嬉しくて。それと同じくらい、悲しかった。

 

 この時の感情は、とても複雑だった。嬉しくて、悲しくて。でも「苦しい」という感情は無かった。

 しばらく我が子を見つめ、愛しい気持ちが溢れ出る。飛び出ている脳と臓器は、ガーゼとタオルで助産師さんがうまく見えないように隠してくれていた。

 奇形児だろうがなんだろうが、関係ない。ちゃんと「人間の姿」だった。可愛いと、素直に思った。

 

「◯◯さん(夫に名前)、抱っこする?」

 

 すぐに仕事が待っている夫を思い出し、私は鼻を啜りながら問いかける。

 

「うん」 

「夫にも、抱っこしてもらえますか?」

 

 Fさんに息子を渡し、Fさんが夫に息子を渡した。

 タオルごと受け取った夫は、しばらく息子の顔を見つめる。クールな彼のことだから、特にリアクションをすることなくFさんにすぐ返すと思っていたが・・・予想外だった。

 

 

 夫が、泣き出したのだ。

 

 

「ぐすっ・・・うう・・・」

 

 ティッシュを取って涙を拭く夫に、私は呆気にとられた。夫と出会って、彼が泣く姿を初めて見た。

 

 その姿は、本当に「父親」だと思った。

 

 また色んな感情が込み上げてきて、私もつられて泣いた。

 先生二人とFさんに見守られる中、私達親子3人が初めて揃う。

 

「先生・・・」

 

 静かになった部屋で、私はA先生に声をかけた。

 

「なんでしょう?」

「心臓も私のお腹の中で止まってくれて・・・結果、これで良かったんじゃないか、と思っています。本当に、ありがとうございました・・・」

 

 か細い声で、そう伝えた。

 本当に、これで良かったと思った。これ以上、できることは無かったと思った。

 A先生は女医さんと目を合わせて、頷いてくれた。

 

「そうですね。お二人が決断したことは、決して間違いでは無かったと、思います。本当に、素晴らしい判断だったと、我々は思います。赤ちゃんもお母さんも、本当に良く頑張りましたね」

 

 B先生と同じことを、言ってくれた。女医さんも何度も頷いてくれる。

 

 心臓がまだ動いた状態で、母体保護法の経済的理由で中絶を選んだ結果だとしても。最期まで、心臓が止まる瞬間まで看取った結果だとしても。

 この選択肢が正しいかなんか、誰にもわからないし、誰にも評価はできない。どの選択肢を選んだって、将来ずっと自分を攻め続けることもあるかもしれない。

 

 でも、自分達が悩んで悩んで、泣きながら、苦しみながら家族のために出したこの結果は、絶対に『間違い』ではない。

 

 そう信じたいし、信じるしかないのだ。

 

 小さな命が宿ることは、本当に奇跡だから。

 その奇跡とどう向き合うのか、どう生きていくのか。それを決めるのは、何も知らない他人や、評論家や医療従事者でもなく、家族だと思うから。

 

 

 令和3年8月3日 17時40分 

   16cm 、56gの小さな男の子。

 広く大きな心を持ち、和やかな子でありますように。

 『大和』

 そんな思いを込めた名前が、息子に捧げる最初で最後のプレゼントになった。