ヨシムラの日常日記

自分らしく、ゆっくり歩いて行こう

妊娠から死産まで22「どんな姿でも」

 

 

 「◯◯は、本当に良く頑張ったよ。お疲れ様」

 

 夫は、私にそう伝えて仕事に行った。夫だって、朝から付き添って疲れているだろうに。死んだ我が子の姿を見て、どんな気持ちで仕事に向かうのか・・・と心配になった。コロナ療養もあり、これ以上は欠勤ができないため仕方ないとわかっていても、父親だって死産後の仕事は、きついと思う。

 

「行ってらっしゃい」

 

 私は精一杯のエールを込めて、夫を送り出した。

 

 

 Fさんに付き添ってもらい、私は大和と一緒に自室に戻った。350mlほど出血したらしいが、案外平気で動けるものだと、女性の体の逞しさを知る。

 

 沐浴は、脆い皮膚のためやっぱりできなかった。大和は簡単に助産師さんに体を拭いてもらったらしく、私達が選んだ黄緑の赤ちゃんドレスを着ている。着ているといっても、下に敷いてその上から包まれているような状態だ。直接抱っこはできず、タオルごと抱っこしなければいけなかった。

 

 自室に戻ったのは、結局20時近くだった気がする。

 遅めの夕食をとり、我が子との時間を過ごした。

 

 

 改めて、まじまじと我が子を観察する。

 自分の子に失礼だと思うが、思ってた通り、中々グロテスクだと素直な感想が出る。頭蓋骨の一部が欠損し、脳が飛び出ていると言われていたが、脳というより頭部自体がペチャっと水膨れのようになっていて、歪んだ頭をしていた。

 未熟の大和は、口唇口蓋がまだ裂けている状態だ。形成される前のお産となったため、猫のような口元だった。

 黒くて大きな目は半開き。瞼が薄すぎて、閉じてあげることはできない。

 

 腹壁破裂のように、内臓はいくつか外に出ていた。

 肝臓と、胃と、小腸。パッと確認できるのはこの3つぐらいだった。解剖で見た、成人の何十倍の小ささだろう、と冷静に考えてる私。膀胱あたりに心臓があると聞いていたが、外面からは見れなかった。

 

 (こんな状態なのに、心臓は頑張って動いていたのか)

 

 はたから見たら、自分の赤子のそんな残酷な姿を冷静に観察するなんて、どうかしてると思われるかもしれない。

 

 でも不思議と、嫌な気はしなかった。嘘ではない。

 

 大和の右足が、体とクリップで繋がれていることに気づく。おそらく、出産の時に右足が千切れてしまったのだろう。誰かが「足が・・・」と言っていたことを思い出した。私達が夫婦がショックを受けないように、先生達が体を繋げてくれたのだ。私は、A先生達に感謝も込み上げる。

 

 人差し指で頬を撫でたり、手を触ったり。ぺたぺたした冷たい皮膚を、しばらく何も考えずに触っていた。

 

 

 

 

 この子と一緒に過ごせる時間は、明日の昼までだ。

 私はてっきり家に一度連れて帰れると思っていたのだが、友引も関連して火葬場が明後日休みになるため、予定通りの別れができなくなった。大和の皮膚では、腐敗が進みやすく、真夏のこの時期、2日間も家に連れて帰るのはどうか…と葬儀の担当者から相談された。

 

 一瞬、自宅安置ができないことに私もショックを受けるも、腐敗が進むのは可哀想だとすぐに切り替える。家の冷蔵庫に保管するわけにもいかない。火葬場の保管場所に預けた方が、一番体が保持しやすい。

 

 そして、火葬に立ち会うか立ち合わないか・・・私達は立ち会わないことを決める。

 

 夫がどうしても火葬日に仕事を休めなかったこともあった。私一人だけで火葬に立ち会っても良かったが、一人で火葬場に行ったら泣き崩れる自信があった。本気の本気で、心が崩れる気がして怖かった。

 大和が骨になった姿で、家に帰ってくるのを待つことに決める。

 

 

 だから、限られた時間しかないから。

 夫がいる間に、大和を産みたかったのだ。

 

 

 全てが偶然なのだが、コロナの療養といい、出産といい、家族の時間を作ってくれたこの子は、なんて良い子なのか…としみじみ息子を褒めた。

 写真は撮らずに目に焼き付けようかと悩んでいたが、やっぱり写真が欲しいと思い、スマホを取り出して我が子の撮影をする。もちろん、ちゃんと臓器を隠してだ。

 

 そんなとき、Fさんが色んな小道具を持って病室に入ってきた。

 

「お疲れ様でした。今点滴を抜きますね。着替えもしましょうか」

 

 点滴を抜いて、血塗れになった分部着を脱いで。簡単に汗拭きシートで体を拭いて、パジャマに着替える。やっと身軽になれてスッキリした。

 

「アルバムと、カメラと、足形と手形と、ネームバンドお持ちしました。一緒に手形と足形、取ってみましょうか」

「ありがとうございます!」

 

 幼稚園で使った、形取り用のスタンプパッド。産声アルバムと、大人と子供両方のネームバンドがあった。

 Fさんと一緒に、手形と足形を苦戦しながら取っていく。大和は両手、両足も奇形しているため、なかなか形取りが難しかった。

 

「ごめんね〜ちょっと腕曲げるね」

「がんばれ〜。もうちょい!もう1回!」

「足も触るからね〜」

「服押さえます」

 

 ほとんど、形取りしていたのはFさんで、私はドレスを押さえる、声かけしかしていなかったが…笑

 でも、その思い出作りが楽しかった。1cmにも満たない我が子の手足の形が紙に残ることに、私は自然と笑顔になる。

 そして、Fさんが病院のカメラで大和の写真を撮ってくれた。ドレスもうまく映るように、綺麗に撮影してくれる。

 

「本当に、目がぱっちりしてて大きい。足も長いですね。お父さんにそっくり」

「え、そうですか? ああ、確かに言われてみると…。鼻がぺっちゃりなのは、私かと思っていたんですが」

「ふふ。お父さんにお会いした時も、足が細いって思ったんですよ」

「あはは。短パン履いてましたからね」

 

 Fさんとたわいもない会話を続ける。

 アルバムに名前を書く蘭があり、私はぺんを借りた。

 

「名前は、大和にしたんです」

「大和君! 素敵な名前ですね」

「はい。男らしい名前がいいねって、夫と話をして…」

 

 そこまで声を出して、目の前が滲んだ。

 

「最初は、この子染色体異常の可能性があるかもって言われて・・・遺伝子カウンセリングを受けたんです。そこで、トリソミーだったら、どうしようかって話をして」

 

 話すつもりは無かったが、Fさんにポツポツと思いを零した。

 

「長く生きていける病気だったら、育てたいと思っていたんですけど…でも、13・18トリソミーだったら、どうしようかって悩んでいて…中絶も、考えていたんです」

 

 堪えていた罪悪感が湧き、私はまた涙と鼻水が止まらなかった。 

 Fさんがテイッシュを渡してくれる。

 

「…そうだったんですね」

「産むか産まないか、悩むのが怖くて。でも、今回、この子の病気を聞いて、生きられないってわかった瞬間、ホッとした自分がいて…。お腹で心拍が止まって、これで良かったんじゃないかって思って…」

 

 『これで良かった』

 それは、自分を守るための意味づけだった。

 「今回は」これで良かったなんて、何て最低な人間なんだろう。トリソミーの子どもを育てている親御さんに、失礼極まりない。

 

 勿論、大和にも。

 

 病気だとわかって、重たい障害を持って産まれるとわかったら?

 経済的理由で、育てられないからと。仕事を辞められないからと。また産めない理由を作り上げて。また、産むか産まないか悩んで。夫とまたぶつかって、自分達の親にも意見を求めて。

 不安に駆られて、苦しい毎日を過ごすことになる。

 

 そんな未来が、怖かった。

 生まれた後だって、重度の障害を持つ可能性は0ではないのに。

 そんなことを考える自分が嫌だった。

 

 なぜ産むか産まないか、悩まなければいけないのか…。

 

 「中絶」は選択肢だ。自分だけでなく、赤ちゃんだけでなく、「自分達の未来」のための、選択肢。

 「産まない」という選択に揺れた自分に、弱さを感じた。親になる資格はないと思った。

 客観的に冷静になれば、それはやむおえない理由だとわかる。

 

 でも、いざ当事者になったら、こんなにも苦しくて、怖いもので。

 頭がおかしくなるくらい、辛いものだと、初めて知った。

 

 

 「産むか」「産まないか」

 そんなの、今だって答えは出ない。

 

 

 

 

 

 「…そうですよね。もし、自分が同じ立場だったらって思うと…やっぱり、色々悩むと思います」 

 

 Fさんが、静かに答えてくれた。

 遺伝子カウンセリングの先生達も、「そうですよね」としか、答えられなかった。

 誰だって、すぐに答えが出ないのだ。医療従事者なら、尚のこと。医療ケアの責任の重さは、並大抵のものではない。簡単に「産めばいい」とは、言えない。簡単に「育てられるよ」何て言えない。

 綺麗事無しで、自分達がその子を本当に豊かに育てられるのか、真剣に考えなくてはいけなかった。

 

「すみません、なんかまた込み上げてくるものがあって…」

 

 Fさんを困らせてしまったことを、謝罪する。

 

 もっと、贅沢を言うならば。

 どんな病気だって、どんな重たい障害があって産まれてきても、誰もが認めてくれる世間で、誰も比較しなくて済むような、家族が幸せに暮らせる整った社会であってほしいと思った。子供の保険がもっと安く利いて、在宅サービスが充実していて、医療スタッフが揃った保育園や支援学校があって、健常児と障害児が触れ合える時間があって、両親が共働きできるような、どんな子でもどこにでも出かけたり、教育を受けたり、旅行に行けるような、そんな夢のような環境が欲しい。

 誰も苦しまないで、悩まないで、どんな子だって望んで「産む」を選択できる世の中になってほしいし、そんな国になってほしかった。

 

 しかし、それはすぐには叶うことのない現実。

 

 それでも、産んだ今ならわかる。

 生きることができると、希望があるなら。自分の子が生きられると、信じることができたら。

 どんな障害を持ってても、どんな姿でも愛せることは必ずできると思う。

 大和のような、体がぼろぼろの多発奇形児でも、可愛いと思えるのだ。自分の子の愛は、無限大。

 お金がいくらかかろうが、いくら大変なケアになろうが、そんなの関係ない。愛しい家族のためなら、母親は何だって乗り越えられるのでは、と思った。父親だって、同じだ。

 

 口先だけなら綺麗事は言えるけども。

 決して簡単なことではないけども。

 いざまた壁にぶつかったら、家族と揉めたり、追い詰められることもあると思うけども。

 

 そのための環境作りを、自分達にも準備できるのか、夫と一緒に考えていきたいと思った。

 

 どんな家族の形があるのか、知りたい。どんな生活をしている人達がいるのか、知りたい。

 

 

「でも本当に…この子を産んだことは後悔していません。初めての妊娠で、色んなことを教えて貰いました。産まれることは当たり前じゃないんだって、命の重さについて、痛いほど感じましたし…妊娠している時は、本当に、幸せだったので…」

 

 

 産むか産まないか、悩んだが。

 妊娠しない方が良かった、何て思わなかった。

 悩んだことも踏まえて、愛しい存在だったことは、確かだから。

 

「本当に、この子を産んでよかったと、思ってます。生まれ変わったら、また私に戻って来てほしいって、思います」

 

 それだけは、絶対に間違いのない事実。

 それだけは、素直に答えられる言葉だった。

 

「そうですね。大和君もきっと、同じことを思ってると思いますよ」

 

  Fさんはニコッと笑ってくれた。

 

 

 

 

 妊娠は幸せの一方で、中絶や、死産と言う闇があることに気づかなかった。悲しみに暮れる人達がいることを、知ろうともしなかった。 

 「自分は大丈夫、何となる」とか。

 「自分だったら辛いから」と、そんな理由で目を背けていた現実があった。

  

 知っているのに、避けていた自分がいた。

 

 そんな弱い私に、大和が教えてくれたのかもしれない。大和がいたから、気づくことができた。

 

 これからは、大和に胸をはれる母親になりたい。

 大事な人を亡くして、悲しむ人達に寄り添える人間になりたいと思った。